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ありきたりの毎日に [日記・雑記]

私の毎日は、それなりに平穏に過ぎている。
今は健康とは、言えないけれど。
食うに困らず。
寝る場所に困らず。
自由に考えたり、言葉を紡ぐことが出来る。
それって、贅沢なことなんだと思う。
「悩む幸せ」があるんだから。


チベットでの動乱から、早1年が過ぎた。
今年はかの地で民族蜂起が起きてから、ちょうど50年の節目の年でもある。

911のテロが起こってから、どれだけの人命が失われただろう。
いつものように帰宅して、普段どおりに付けたテレビの画面で起こっている現実が信じられず。ただ呆然としていた。
目の前でWTCへと突っ込んで行く、2機目の飛行機の姿を忘れることは決してない。
だからといって、報復からは何も生まれない。

正義の名の下に、いつもそんな言葉の欺瞞に隠れて。
ミャンマーで、スリランカで、パキスタンで、アフガニスタンで、イスラエルで、ソマリアで、ルワンダ、コンゴで・・・それこそ世界のいたるところで。

私には何が出来る?
いつも、いつも考える。己の無力さを噛み締めながら。

石垣りんさんの代表作の一つに、「私の目の前にある鍋とお釜と燃える火と」という作品がある。
はじめて読んだとき。
大人になったら、たくさんのことを教えてもらおう。
そう、願っていた祖母の言葉を聞いた気がした。

私には、何の力も無いけれど。それでも、
「なつかしい器物の前で/お芋や、肉を料理するように/深い思いをこめて/政治や経済や文学も勉強しよう」
そう呟く。


++私の前にある鍋とお釜と燃える火と++

 それはながい間

 私たち女のまえに

 いつも置かれてあつたもの、

 自分の力にかなう

 ほどよい大きさの鍋や
 お米がぷつぷつとふくらんで
 光り出すに都合のいい釜や
 劫初からうけつがれた火のほてりの前には
 母や、祖母や、またその母たちがいつも居た。

 その人たちは
 どれほどの愛や誠実の分量を
 これらの器物にそそぎ入れたことだろう、
 ある時はそれが赤いにんじんだつたり
 くろい昆布だつたり
 たたきつぶされた魚だつたり

 台所では
 いつも正確に朝昼晩への用意がなされ
 用意のまえにはいつも幾たりかの
 あたたかい膝や手が並んでいた。

 ああその並ぶべきいくたりかの人がなくて
 どうして女がいそいそと炊事など
 繰り返せたろう?
 それはたゆみないいつくしみ
 無意識なまでに日常化した奉仕の姿。

 炊事が奇しくも分けられた
 女の役目であつたのは
 不幸なこととは思われない、
 そのために知識や、世間での地位が
 たちおくれたとしても
 おそくはない
 私たちの前にあるものは
 鍋とお釜と、燃える火と

 それらなつかしい器物の前で
 お芋や、肉を料理するように
 深い思いをこめて
 政治や経済や文学も勉強しよう、

 それはおごりや栄達のためでなく
 全部が
 人間のために供せられるように
 全部が愛情の対象あつて励むように。


石垣りん 私の前にある鍋とお釜と燃える火とー1959年 より
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